『群青』①~ヒーローになれなかった男



歴史小説家、植松三十里さんに興味を持った私は、彼女の作品を読むことにした。
『おばさん四十八歳小説家になりました』①~を私が読むきっかけになった満州国のこと
『おばさん四十八歳小説家になりました』②~歴史作家の自叙伝

まずは『群青』、新田次郎賞受賞作である。

一気に読んだ、面白かった。

軍備、留学、外交、貿易――現在当たり前のように行われているこれらが本格的に始まったのは幕末であるが、この本を読むと、それらのいわゆる「ことはじめ」が実に良くわかる。主人公の矢田堀景蔵は、一言で言えば、勝海舟の影のような男である。彼に手柄を全部持って行かれた日陰の人生・・・現在からみればそいういうことになるが、幕末の典型的なエリートの一人であった。幕臣の子弟として昌平坂学問所の神童だった彼は、当時黒船の来襲を畏れる幕府に抜擢され、長崎に様式海軍術の伝習所を開く。

西洋の列強に渡り合うためには同程度の軍事力が必要、いくら平和な通商条約が前提でも、丸腰では舐められてしまう、何しろ時代はまだ武士の時代。(といえば当然の論理であるが、ここでいう軍事力とはすなわち「軍艦」であり、この理論は北朝鮮の「核ミサイル」と何ら変わりはないような気が・・・)

背水の陣に立たされていた幕府は、唯一貿易をしていたオランダに軍艦を二艘発注し、その操船の人材育成のためにオランダ人から技術を習うのであるが、これがまたとんでもない苦労で・・・生徒監という、伝習所の先生のような立場にある矢田堀はまずオランダ語から学ばなければならない。ここに矢田堀と同僚格の蘭学者、かの勝海舟がオランダ語の通訳として登場するのだが、全然通じない・・・(だろうなあ)。しかも専門用語の応酬、そもそも見た事も聞いたこともない操船の機械や概念の訳語もなく、それを習得するために数学という新しい学問も必要となり・・・寝る間を惜しんでの「座学」とコミュニケーション障害の中での「実技」(当然ながら大砲の打ち方も含まれる!)、ここで体育会系の勝海舟はさっさと座学をあきらめたらしい。

この本を読んでいてつくづく感じ入ったのは、「知」が「武」の基礎を作ったという事実である。海軍という新しい分野を切り開き、軍艦を買って、人を訓練し、国を守る、このベースを作るために、当時矢田堀をはじめ多くの人たちがこれほどの勉強をしなければならなかったという事実だ。勉強とは、高給をくれる会社に入るためにいい学校に入るという個人的な目的ですることではなかったんだ、ということを思い知らされる。留学もしかり。個人の世界を広げるなんて言うことではなく、当時の留学はお国のためであり、エリートたちのプレッシャーは、ほとんど廃人寸前のレベルである。矢田堀のもう一人の同僚も、勉強についていけず鬱になっている。

ちなみに日米通商条約の批准のために、初めて日本人による航海を実施することになったのだが、当然のことながらアメリカの海軍に学ぶための留学も兼ねていた。艦長を任命されていた矢田堀であるが、実際に行ったのは、やはり体育会系の、ろくに操船もできない勝海舟であった、あの有名な咸臨丸の艦長として。

とはいえ、両者は必ずしも反目していたようではないらしい、これは小説なのでどこまでが真実かわからないが・・・真面目な矢田堀とおおらかな勝は、それぞれの特質を生かして果すべき役割があり、尊敬しあっていたようである。

遠州灘ですら難破したという時代に、よくあのいい加減な艦長をして太平洋を渡れたなと感心するが、この本にそのくだりは出てこない。しかし、矢田堀の片腕だった榎本釜次郎という男が実際の操艦に当たり、彼がのちに、軍艦を盗んで函館に逃走した榎本武揚で、その辺のエピソードはかなり面白い。

幕府と、薩長をはじめとする反体制派のち官軍の争い、とりわけ徳川慶喜の一貫性を欠くような行動に振り回されながらも、矢田堀は海軍総裁の地位に上り詰める。諸々のエピソードがあるが、彼の昌平坂の師であり、日米通商条約の交渉役だった岩佐忠震(ただなり)が、大老井伊直弼の明確な承認、つまりは天皇の詔勅を得ずにハリスとの調印をするというくだりは迫力があった。この調印なければ、つまりアメリカの後ろ盾を得なければ、イギリスが攻め込んでくるという切羽詰まった状態を、岩佐という一人の男が打開したのである、切腹覚悟で。幕府も、ましてや雲の上にいる天皇にも、分からない分かりようのない、命がけの外交・・・今も昔も外交とは協力とぎりぎりのラインでの騙し合いのようなもので、きれいごとではないのだと思う。当然ながら、岩佐はこのあと失脚し、失意の中で死んでゆく。

ここで一国がまとまらなければ、内乱は必至、それは中国に見るように亡国への道である、よって攘夷派の恨みを一身に引き受ければ本望だと、そういう先見の明と気転と度胸と犠牲的精神のある武士がいた。岩佐という恩人への供養にもなれと、海軍の基礎を整えていった矢田堀もまた武士らしい生き方を全うした。

当時蒸気船を動かすには、船の底で絶えず石炭を燃やし続けなければならなかった。その過酷な仕事を担った火夫、また最終的にはいつも頼りになった和船の水夫、こういう人たちとともに仕事をしてきた矢田堀は、歴史に名を残すことに執着しない。開国時代の日本の、平和のための軍備という「大義」に命を懸けた。

矢田堀が、甥の荒井郁之助(榎本について五稜郭へ行き、後に初代中央気象台長となった)に言った晩年の言葉は感動的だ。

「歴史に名を残すのは、戦争をした者ばかりだ。信長公しかり。家康公しかり。戦争に反対したものは、反対しながらも戦争を止められなかったのだから、評価はされない。戦争に反対したものは、歴史に名を刻むことはできないのだ」

「私は歴史に名を残さないことを、むしろ誇りに思う」



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