『おばさん四十八歳小説家になりました』①~を私が読むきっかけになった満州国のこと




先日、松岡將さん(『松岡ニ十世とその時代』の著者)が、長春その他旧満州各地を訪ねて作ったスライドを見せてくださった。満州国は戦前日本の一大プロジェクトであるが、みんな忘れている。私たちの世代だと、満鉄とか甘粕大佐とか満蒙開拓団なら聞いたことがあるかもしれないが、実情はよく知らない。言ってみれば我が国の「黒歴史」あつかいである。

しかしその地に生まれ、ソ連(当時)に攻め込まれ、父親をシベリアで亡くした松岡さんからしてみれば、右翼とか左翼ということに関係なく、近代日本史における満州国というもの実態を若い世代に伝えるべきでないかというのは、まったく同感である。

関東軍の暴走や残留孤児、あるいはそもそも建国の正当性などといった影の部分は数多あるが、それはそれとして、単純に、当時の日本があれだけのプロジェクトを短期間に成し遂げたという事実は瞠目に値する。なぜなら、その頃の日本は今の日本よりずっと大きかったのである、まったく信じられないほど!

学習院大学キャンパス内に乃木大将(10代学院長)が自費で建てた石碑がある。彼が指揮をして勝ち取ったリャオトン半島をはじめ、台湾、朝鮮半島、樺太等千島列島、その他小笠原諸島など、当時の日本の領土の境界地から集めてきた80個を含む147個の石でできている。(それぞれの土地の個性的な石の出所も説明されていてとても面白いし、ほかにもたくさんの歴史的建造物があるので、おすすめの散策スポットです!)

その碑の上に、乃木大将は、決して枯れることのないと言われる(と言っても今は二代目)の榊を植え、新国土の安泰を祈ったのかもしれないが、戦後は大半を失った。いずれにせよ、そのように拡大された日本が満州国を創っている時代は、今より人口が少なかったにもかかわらず、多くの日本人がすでに北米や南米に移民していたし、台湾や朝鮮における統治・移住・開拓、中国奥地や南方諸島への出兵(さらに多くのエリートが治安維持法で投獄さえされていた)であちこちに散らばっていたわけで、にもかかわらず、それぞれの場所で、ものすごいことを成し遂げた(善悪は別として)という事実には驚かされる。

多くの人が大学を出て、当時より人口もずっと多くて、物質的に豊かになったはずなのに、今の日本のエネルギー、というか国民のエネルギーは各段に落ちている気がする・・・くだらない40インチの画面によって均質化され、吸い取られてしまったのかしらん。

それはともかく、その当時のエネルギーのすごさをまざまざと感じさせるものの一つが、今まだ残る旧満州国の堂々たる建造物である。関東軍司令本部も満鉄のビルも、たくさんの学校も、名だたる駅舎もホテルも、ほぼ当時の日本人が設計したものである。(もちろん苦力=クーリーと呼ばれた現地の貧しい中国人の労働力があってのことではあるが。)建物は残っているだけでなく、各地の共産党の主要施設などに普通に利用されている。

松岡さんは母校の桜木小学校をはじめ、そうした建物の写真をたくさん撮っていらした。そしてその中に、満州中央銀行倶楽部という、満州の帝国ホテルと称された建物があり、それがフランク・ロイド・ライトの弟子の遠藤新の作品で、しかもその建築家を知っていて、ホテルもよく利用したという人も現れ、ぜひ、遠藤新の孫で私の知人の現(げん)さんにそのスライドショーを見せしようということになり・・・そしていよいよ、ようやくこれからが今回のブログの本題なのだが、現さんのお知り合いで、今『歴史街道』という雑誌に帝国ホテルについて連載中の歴史作家、植松三十里さんもお呼びする、という運びになった。ふ~っ。

長すぎる前置き。で、植松さんの本を読みだした次第であり、有名な作家なのでご存知の方が多いと思うが・・・

あまり長すぎる前置きなので、サブタイトルをつけて、とても面白かった表題の本の感想は②に書くことする。




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