『ネグレクト』&『「子供を殺してください」という親たち』、そして羽仁もと子①



副題は「真奈ちゃんはなぜ死んだか」


自由学園の創立者の羽仁もと子の研究を細々続け、今ライトとの関連の文章を書いているのだが、羽仁もと子といえば幼児教育のパイオニアでもある。たくさんの育児に関するエッセイを書いているし、実際に幼児生活団という今でいう幼稚園も創立した。長女の説子はその道の研究者で、幼児教育の権威でもあった。戦争中に子供の疎開をいち早く国に提案したのも彼女だ。

残念なことに私は子供ができなかったので、もと子の育児エッセイを役に立てることはできなかったが、それに基づいて教育した人たちはたくさんいるだろう。皇后陛下の美智子さまももと子の愛読者でいらっしゃったし、おそらく皇太子をはじめとするお子様たちにも、もと子の提唱する子育て方法を取り入れられたと思われる。紀宮様は幼児生活団の通信教育をご利用されたと聞いたことがあるし、英国の皇室で出産があると、自由学園工芸研究所の知育玩具をプレゼントされていらっしゃった。

知の巨人、立花隆さんが何かの本で、お母様がもと子の信奉者だったのでその方針で育てられたと書いていたし、生物学者の福岡伸一さんのお母様とはもと子の創刊した『婦人之友』の愛読者の「友の会」の中心的リーダーで、ご一緒に仕事をしたことがある。あの明晰なお母様をして福岡さんのような秀才が育ったのだと納得する。

絶対音感という概念をいち早く教育に取り入れたのももと子で、生活団からはオノ・ヨーコや坂本龍一などの才能が出ている。

なので、私は妹に子供ができたときに早速生活団を勧めたし、友達に子供が生まれたりすると、もと子の本を読むように勧めたりしてきた。

だけど、どうも今は時代が違うようである???

私も自由学園に広報担当者として勤めたことがあるし、中学で教師をしている友だちや甥もいるし、保育園に勤めている姪もいる。フリースクールのようなところで働いている甥もいる…子供はいないけど、そのように周りに子供の教育にかかわっている人がいて、いろいろ話を聞いている。甥が保育園に勤めていた時、保育園の実情を垣間見たりもした。

う~ん、確かに、私が子供だった頃とずいぶん違っている。羽仁もと子の教育論は時代遅れなのかな…ネットをいろいろ見ているうちに、なぜか標記の二つの本を読んでみる気になった。現代の教育といっても極端なケースであり、いずれもかなりショッキングな内容だったが、ある意味現代の子育ての現状と結果を描いているとも言えなくはない。

『ネグレクトー育児放棄』の作者の杉山春さんも、『「子供を殺してください」という親たち』の押川剛さんも、それぞれこの極端なケースが単なる事件ではなく、すでに社会問題であると指摘している。ここまでのケースに至らなくても、子育てに関する親の葛藤や苦しみ、子供の孤立感と閉塞感が、ますます増大しているのが現状だというのである。

ふたつの本はある意味で反対の立場から書かれている。前者は夫婦が長女の育児を放棄した結果死に至らしめたケース。後者は子供の狂暴化によって命が脅かされている親たちが、その子を病院や施設に送り込んでも退院しては同じ目に合わされるので、いっそ殺してくれないか、と作者に訴えるという話である。

親から子への暴力と、子から親への暴力。いずれもこれらに書かれたエピソードは、私の想像を絶する壮絶さだった。

簡単に言うと、前者は幼馴染の男女が十代で女の子を産んだが、自分たちの幼さゆえに、うまく育てられない。そのため発達が遅れるのだが、さらに男の子を出産したため、長女がいっそう疎ましくなって虐待を繰り返す。良かれと思って介入してくる親たちが、一層事態を悪化させ、最後は長女が餓死してしまう。逮捕された夫婦の裁判を通じて、作者は彼らと手紙をやり取りしながら、味方になることもできないが、犯罪者と決めつけることにも疑問を呈す。

私は最初はもっと単純な話かと思っていた。子供が安易に子供を産んで、面倒になって放棄したら死んじゃった、みたいな。彼らの家族も行政も見放していたのだろうと。これはかなり有名な事件としてマスコミでも騒がれたらしいが、彼らは鬼畜のようなレッテルを貼られ、裁判では有罪になったらしい。

事実はそんなに単純ではなかった。若い二人(作中では智則と雅美)は若いなりに熱烈に愛し合い、授かった命(真奈ちゃん)を二人で大切に育てていこうと決心する。智則の両親は最初は反対していたが、息子に高校を卒業させたいからと、母子ともに自分の家に引き取って一緒に暮らすことになる。智則の母聡美は、孫をたいへんかわいがる。雅美の母も納得して、やはり孫をそれなりにかわいがる。智則は高校を卒業して就職し、若い親子は社宅に引っ越しする。

案外普通の人たちである。真奈ちゃんは望まれて生まれ、夫婦仲はよく、双方の両親も協力的で、金銭的にもさほど困らない――そのままいけば、そうだった。
誰もが真奈ちゃんをめぐってベストを尽くそうとしていたのだ。だから登場人物のだれが悪いと責めることもできない。歯車が一つ狂ったら、全部だめになってしまった。赤ちゃん、という大人の思いのままにならない存在が、若い母親の一人のものになったとき、すべてが狂っていった。

行政――つまり保健所、児童相談所の介入も、私が思っていたよりずっとまともだった。虐待が予想される一人の子供をめぐって、あれだけ多くの人たちが話し合いをもったり心を砕いていたとは思わなかった。作者や弁護団は行政担当者の対応の問題点を指摘したが、子育てというプライベートなことに、あれほど行政が関心を払っていたとは、私は全く知らなかったので驚いた。

しかし母親が心を開いて助けを求めないかぎり、行政も助けることはできない。

一言で言えば、真奈ちゃんの母親の雅美が、親になるには子供すぎたのだ。義母の好意を受け入れられない。実母には本音は言えない。仕事で疲れている智則の気持ちを察することができない。発達が遅れている真奈ちゃんが恥ずかしくて、保健所の担当者に会いたくない。担当者は心配して何度も訪ねたり電話をするのだが。

だけど雅美を責めるのも難しい。子育ては誰にとっても大変なのだから、というより、彼女の育った環境からして、愛情深い母親になるのは無理だ。彼女自身が貧困家庭で父親に性的な虐待をされている。じゃあ母親の秀子が悪いかといえば、彼女自身も虐待と貧困に苦しめられていた。

智則にしても母の聡子は次男を失くし、ギャンブル好きの夫に苦しめられて離婚した。そんな母親の感情のはけ口として、智則もまた体罰を受けて育っている。母はホステスとして働き始め、再婚して経済的に豊かになったが、今度智則は学校でいじめにあう。
おそらく聡子もまた虐待されて育ったのだろう。

負の連鎖である、さかのぼればどこまでも続く…

愛された記憶のない雅美も智則も大人を信用できない。だから子育てに行き詰まると、ストレスを通信販売やゲームに向けてしまう…

私のようにかなりまともな両親を持つ場合でも、いろいろなかけ違いからいじめにあい、親や先生に相談するほど信用もできず、今でもなにかと不必要に人に気を使ってしまって、疲れて、面倒になると正面からぶつからずに身を引くというところがある。誰も責めない代わりに、距離を置く。人を信用しないわけではないけど、自分の欲求をぶつけたりはしない。ただ、雅美より大人な対応ができるだけだ。

自分の好きな世界に没頭する、それが人によってはお酒だったり、通販だったり、パチンコだったり、ゲームだったり、ショッピングだったり、私の場合は子どもの頃から読書や書くことだったり、みんななんとかストレスを発散して人と傷つけあわないように生きているのだろう。

子供を餓死させたのも、若い夫婦の本意ではなかったし、そこまでひどい状況だと知らない彼らの母親たちも最後まで孫を心配して、最後の最後まで毎日のようにメールをしたりもしていた。みんな切ない生い立ちを抱えながら精いっぱいだったのだ。裁判を通して、それぞれの事件後の対応を見ていると、だれも反省をしていない、反省ができない、智則をのぞいて。反省とは大人の理知的な行為だから。

雅美は子供のままだった。裁判中は第三子を妊娠していたが、「真奈のためにもこの子を産んでしっかり育てたい」などズレたことを作者や母への手紙に書いている。母の秀子は、そんな娘の手紙をマスコミに公開する、まるで他人事のように。彼女も子供なのだ。智則の両親は面会にも来ない。手に負えなくなれば他人事だ。彼らもまた子供である。誰も自分の責任というものが分かっていない…。ただし智則だけは収監中にたくさんの本を読んで論理的に考えて深く反省してたと書いている(ただし殺意については認めず上告した)。

一体こういう子供な人たちを、どこまでさかのぼって責めたらいいのか分からない。羽仁もと子は、教育は三代かかる、といっていた。良くも悪くも、真奈ちゃんを見殺しにする(本意ではないにせよ)人たちを育てるのに、たしかに三代はかかっている。

羽仁もと子の子育て本は、どちらかというと子供を甘やかさず一人の人間として自分の欲求の意味が分かるように、授乳も睡眠も基本的には時間を決めてだらだらしてはいけない、というものである。親の気まぐれで子供を振り回したり、子供の欲求に無制限に答えているだけだと、自ら生きる力の弱い子供になると警告していた。そうかといって四角四面に決めたことをするのでなくて、子供一人一人の個性と欲求を理解して、その子にあった方法を母親が自ら考えらえるようなヒントがたくさん書かれている。

今の子育ては、とにかく愛されている実感が伝わるように抱き続けることだというのもある。私にはよくわからないが、それはそれで母親は大変であろう。仕事をしていたらまず無理だろうし、母親こそが神聖な仕事だというのも無理がある。職業を持っていても頑張って子育てしている人もいるし、昔はそこまで母親がべったりでなかったが、まともな人が育っている。だいたい10人も子供を産んでいた時代もあるのだ。その時代の子育てはそんなに難しかったのだろうか?

やはりいろいろな意見を参考にしながらも、母親が周りの協力や理解の中で、きっちり子供に向き合って、自分で考えるしかないのだろう。みんなそれぞれ違っていい、どれが一番ということではないと思うのだが、情報が多すぎて考える力がなくなりそうだ。


羽仁もと子の『教育三十年』より

おさなごはみずから生きる力をあたえられているもので、しかもその力は親々の助けやあらゆる周囲の力に勝る強力なものだということを、たしかに知ることです。のみならず、そうしてその強い力がわれわれに何を要求しているかを知ることです。人は赤ん坊のときから、その生きる力はそれ自身の中にあります。母親が自分の持っている知識や感情を先にたてて、知らず知らず赤ん坊の自ら生きる力を無視していると、赤ん坊というものは容易にそのほうによりかかって、そうして自分の中に強く存在しているところのみずから生きる力を弱めてゆくものです。
(そうすると)自分の生命のほんとうの要求が自分にわからなくなってくるのです。そしてただ眼前の苦痛や満足や喜びや悲しみのみに囚われて、そればかりを訴えたり表現したりするようになります。したがって母親をはじめ周囲のものが、その赤ん坊の真の生命の要求でないところの、その場その場の浅はかな訴えに動かされて、さまざまの処置をするようになる。その結果は赤ん坊の真の命ははぐくまれずに、当座の感覚的欲求ばかりが日に日に強くされてゆきます。こうして丈夫に生まれても弱くなる赤ん坊や、良知良能が授かっているのに、全くききわけのないわがままな子供や、頭脳(あたま)の悪い子供が出来てゆきます。


そしてもう一冊の『「子供を殺してください」という親たち』の方は、むしろ子供に期待をかけすぎたり甘やかしすぎたというケースである。


つづく

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