宗教を考える②:『宣教師ニコライと明治日本』~プロテスタントへの反撃



前回のブログ(宗教を考える①)の続きである。公開しているが読者がいるとは思えない、かなりマニアックな読書感想文は自分の頭の整理に他ならない。サブタイトルもそうした趣旨で勝手につけた、というのは、前回のブログの、武田清子氏によるプロテスタント真髄論ともいうべき思想に私の常日頃の考え(とても「思想」とは言えない)が一撃されたので、反省を迫られていたところ、次に読んだ本の中で、なんとかの有名なニコライ堂のニコライが、プロテスタントに反撃したのである。

つまり武田氏による著作を読んで、私は自分の漠然とした信仰とも呼べない心境を、以下のように生ぬるいと一喝されたような気がしたのである。

キリスト教で言うところの絶対的自己超越―――絶対的、人格的他者としての神(God)による絶対的自己否定を通して自己肯定に到達するという意味での自己超越。それに比べると多く日本人の超越は、人間の主体的、心理的操作によるもの、いわば相対的自己超越である。―――多元主義的価値観による自己超越の操作、無原則のプラグマティズム、東洋的消極的自由、無意識・意識的に操作されたところの無執着の自己超越。あきらめに似ているが自己肯定の中で現状の拘束を超越して、そこから自由な心理的精神的態度を生み出しているもの。

武田清子氏と同じく国際基督教大学の教授である中村健之介氏の『宣教師ニコライと明治日本』。明治のキリスト者、羽仁もと子の研究にあたって、当時の日本の布教状況を知るためにも欠かせない一冊として昔買って、付箋だらけだから、かなり参考にしていた本なのだが、内容をすっかり忘れていた。先日ニコライ堂に行ったときも、信徒のガイドさんが関東大震災で崩壊したがソ連(当時は)からの寄付を中心に建て直しただとか、そんな話ばかりするし、静謐な空気に感じ入って俳句をいくつか読んだりしたが、ニコライの真摯な生き方とその苦労など、この本を読んであれほど感動したのに、すっかり忘れていたのである。

このたび再読してみて、あまりの面白さに、こういう本が読めるのだから生きていてよかった、と思った。なんだか大袈裟だが、本当にそう思うのだからそう言うしかない。武田氏の本は知的な刺激を受けたが、中村氏の本は彼の紹介するニコライの生き方に私の心が揺さぶられる感じがする。羽仁もと子やライトを好きなのも、彼らの思想に、知的な興奮も感じるが、それ以上に心が洗われるような人間の美しさを感じるからだ。

ニコライは幕末の日本にロシア正教を布教しようとやってきたエリート宣教師である。既得権の保持に腐心していた旧態依然の国教会、その安定した地位を顧みず、未知の地へ乗り込む志願をした23歳の青年であった。馬車に乗ってシベリアを横断し、ニコラエフスクで海路凍結のために足止めを食ったりしながら、一年かけて来日。函館で、本格的な布教に向けて8年間も日本語と日本史の勉強をする。日本語のあまりの難しさに、ロシア正教の聖書はまずその漢訳から入って、日本語に訳したという。新渡戸稲造をはじめ学識の高い藩士に師事し、『古事記』『日本書紀』『日本外史』などの史書や法華経などの仏典を原文で読破して、後には日本人の神学生にその講義をしたほどの勉強ぶりであった。その間、坂本龍馬の従弟であり函館でもっとも古い神社のひとつの神官であった沢辺琢磨を最初の信徒として、戊辰戦争を挟んで、佐幕派の東北志士を中心に信徒を拡大していった。その後現在の神田の駿河台に「正教会本会」を母国ロシアの支援によって建設し、そこに暮らしながら毎日の教会行事を執り行いつつ、全国津々浦々を訪ね、信徒を励まし、またその拡大に勤めた。日露戦争、ロシア革命に魂の引き裂かれるような苦しみを味わいながらも、自分が蒔いた種である教会の将来を心配しつつ、1912年(明治45年)に永眠、在日50年に渡る布教の実績を残した。

私が書くとまったく味気のない、彼の人生の要約だが、本書を読めば、幕末にロシアからやってきた青年宣教師の布教を通して当時の日本や世界の状況が見事に浮かび上がってくる。近代国家の建設に貢献しようとする志士から田舎の貧しい百姓、著名在日外国人やトルストイのような母国の偉人その他の人間がとてもよく活写されていて、ニコライのドラマチックな、喜びと苦しみに満ち満ちた、神の光に導かれたような人生が記録されている。

それはそれとして、この知的なニコライが随所にプロテスタントをその知性的であるがゆえに批判しているのが興味深かった。

プロテスタントでは宗教的な渇きは癒されない。――-プロテスタンティズムは、宗教とはいっても近代合理化精神を肯定し、信仰の近代化を行ない、神秘や儀礼に依存する面を少なくし、新約聖書を倫理規範として個人の両親や合理的主義や知的向上性や実践倫理を強調する教えとなった。それは現世の人間中心の教えである。


ニコライが伝えた、近代的個我の確立の核となることのない、また「文明と実利性と上昇志向の魅力」を振りまくのでもないキリスト教は、日本の宗教的土壌に合っている。ロシア正教はキリスト教であるが、むしろ明治の日本の庶民のいわば前近代的な宗教心、宗教的感情に接合しうる宗教だった、少なくともニコライ自身はそう感じたということである。


ニコライはキリスト教の宣教師であったが、宗教的感情は相互浸透のできる普遍的なものであると思っていた。―――彼から見れば日本では宗教は、神道も仏教も「上層」ではすでに失われてしまった。しかし庶民の間では宗教は生きている。知識人もどきの牧師たちが議論しているプロテスタントのキリスト教よりも、日本の庶民の帰依している仏教のほうが、まぎれもなく宗教だったのである。明治の日本には、その「下層」は広く厚く存在していた。そしてニコライは宗教の生きている場で宣教したかった。
以上本書より引用。

なるほど。日露戦争は彼にとっては針の筵以上に辛いものであった。彼の「愛する日本人」は勝利に酔いしれるが、ロシア人の自分はそうはいかない。誰にも感情を見せることができず苦しみに苦しんだが、それが絶えることができたのは、日々教会にて執り行った「奉神礼」(神の世界を讃えてそれに触れる儀式)であったという。これはプロテスタントの教義にはない世界であろう。

武田氏は、プロテスタントだった中村屋創業者の相馬黒光が、子供の病死等で精神的に苦しみ、浄土宗の他力道によって自らを救わんとしたことについて触れている。あれだけ聡明で若いころから多くのキリスト者に囲まれていた黒光ですら、心の闇をキリスト教によって克服することはできなかった。人が知の力で神にたどり着くことには限界がある、ないしはそこまでの知というもの自体がすでに相当に限られた人にしかあり得ないのかもしれない。

啓蒙主義的で自主独立を重んじるプロテスタントは、正義感と使命感に富む日本の指導者層に入り込んで、確かに多くの社会改革者を生み出し、時代をリードしたかもしれないが、ニコライが書いているように、人の心に宿る「前近代的な宗教心、宗教的感情」とは相容れない、あるいは極めて難しい宗教なのかもしれない。

仏教でも、茶人や武士に好まれた禅宗と、百姓をはじめとする庶民を対象にした浄土宗や浄土真宗、といった違いがある。

総括すれば、武田氏のキリスト教はエリートを対象にした議論である。そのエリートの大半も、多くがキリスト教から西洋文化を学びたいという宗教というより現実的な手段として近づいたのであり、自由民権運動、女性解放運動その他を通じて多くの社会的改革がなされたが、人間の原罪の理解や神という絶対超越者の元での自我の確立ということの理解ができた人は一握りに過ぎず、多くを救う手段とはなりえなかった。それは日本だけでなく、世界中のキリスト教国でも同様であろう。そして現在の信徒が強い信仰心を抱いて社会的活躍をしているかというと、私も関連の団体にかかわっていたことがあるが、おおむね保守的なサークル団体という感じである。

ニコライの、土着の庶民を対象としたキリスト教もまた根付かなかった。在日50年の布教の実績(当時)は、大聖堂1、聖堂8、会堂175、教会276、主教、司祭34、伝道者150、信徒総数3万4,111人とある。たった一人で外国からやってきた言葉も話せない人間の業績としては立派であろう。しかし、現在の信徒数は1万人に満たないし、教会も各地で文化財になっているが、おそらく信徒の高齢化と時代遅れの布教内容で、風前の灯火という感じが否めない。プロテスタントやカトリックはそれぞれ相当数の教派があり、よくわからないが、実情はあまり変わらないかもしれない。

ちなみに新興宗教の幸福の科学は、創立から30年余りで、現在120か国に教会を持ち、信徒数は1千万人を超えるとのことである。これはいったいどうしたことか。その教理も何も私にはわからないが、指導者やメッセージにそれだけの人を惹きつける魅力と今日性があるのは確かであろう。ほかにも創価学会が820万(世帯)、立正佼成会が300万(いずれも政治に深くかかわっている)、顕正会161万、霊友会140万、佛所護念会教団124万――いずれもとんでもない数字である。キリスト教全体で260万人と言われているのを考えると、本当にすごい(しかしこれらの数字はネットから見つけたので正確とは思われないものの)。これもまた時代の流れで衰退するときが来るであろうが。

このブログの文章もどこへ行くのかわからなくなってきた・・・あゝ人間は、心のよりどころを探して生きているのは間違いないらしい。

宗教なんて怪しいとかばかばかしいと思っている人も、これがあれば幸せだとか、これなら信じられるという価値観を見出しているという意味では、経済教、テレビ教、AKB教、グルメ教、パチンコ教、科学教、健康・美貌教、家族教の信者と言えるかもしれない。特にお金があれば幸せになれるとか、科学が証明しているから大丈夫だ、と思い込む経済教と科学教の信者が多いかもしれない、相対的な価値観であるにもかかわらず。

時代の役割を果たしつつ、宗教もまた新陳代謝していくのか。

絶対的価値、つまり真理は一つなのだ、と思いたい私の頭は整理されないままだが、この「宗教を考えるシリーズ」は次の一冊をもって、とりあえず、終了したいと思う。




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